山手線の中のテレビ広告(?)を見ていたら、「的を得る」という表現が間違いである、と書かれていた。言われてみれば表現としてはおかしい。的は「得る」のではなくて「射る」ものなのだ。
でも、メールの中の表現で「的を射る」という文面をあまり見たことがない。
みんながみんな、間違っているということ?……いや、たぶん私が、見ていないだけなのだろう。「私の辞書」にないものは、記憶として残っていないのだと思う。
活字をあまり読まず、発音だけで言葉を覚えた結果なのだろうな、と思う。
きっと、そういう言葉は「私の辞書」にとてもたくさんあるのだろう。でも、そういうことは他人がなかなか指摘できるものではないから、本人の中ではそれが正しいと思って定着してしまう。結構恐ろしいことだ。
行動でもそうだと思う。
正しいと思ってやっている行動が、周りにとって正しいと写っているとはかぎらない。周りは「あの人はそういう人だから」なんて片付けてしまって、指摘もせずに時が過ぎて行く。自分が今まで経験してきて得たものを信じているだけなのに、それがいつのまにか「性格」として片付けられてしまう。
自分にもきっと、そういうのがいっぱいあるんだろうなと思う。
指摘してくれる仲間や友人は、本当に大切にしなきゃなぁ、と思う。
相手を信じているからこそ、言える指摘ってあるなぁと思うのだ。
的確に物事を捉えることを表す正しい日本語は「的を射た」であって、「的を得る」ではないとどこかで習ったかきいたか覚えていないが、ぼくも「的を射る」が正しいと思っていた。しかし今日、大学受験時にお世話になった中谷臣先生(駿台予備学校世界史科講師)のホームページを見ていたら、そうではないのだ、と書いてあるのを発見した。
射撃の場面を想像して「的を得る」はずがない、「的を射る」ものだ、という誤解です。これは漢語に由来する表現であることを知らず、日本語として「的を得る」はずがない、と思ってしまうのです。語源の『大学』・『中庸』にあるように、「正鵠(せいこく)を失う」という表現からきています。この場合の正鵠は「正も鵠も、弓の的のまん中の黒星(『角川漢和中辞典』)」のことで、射てど真ん中の黒星に当てることができたかどうか、当たったら「得た」といい、はずれたら「失う」と表現していたのです。矢で的を射るのは当り前としても、必ずしも的に、まして正鵠に当たるかどうかは示していない表現が「的を射る」です。
以上引用でした^^;
という事で、的を得るは本来間違いではないようです。
>はせすけさん
コメント、お手数掛けちゃってすみません。
同じ投稿内容のものについては、削除しておきました。
なるほど!勉強になりました。
なんか、ちょっと霧が晴れた気持ちです。
「射る」というのは、動作そのものを示しているだけで、「得る」というと的を射た結果を示しているということになる、ってことですよね。
関係ないですが、私は大学時代の4年間、駿台でバイトしてました(^^; 駿台にはいろいろな思い出があります。
2004/03/08 18:41 Mayunezu正鵠=的ではないので、中谷氏の言い分もなにやらこじつけっぽく感じるよ。
正鵠を得るという言い回しがあるから、的を得るは
間違いではないというのは変。
的を得るというのは的そのものをgetしたことに
なると思うな。
正鵠にhitしたから、getしたという表現はありだろう
が、これはあくまでも正鵠が絵だからでしょ。
的は絵じゃないから、hitしてもgetするというのは
表現的におかしいよ。
ちなみにね、正も鵠も鳥も的の中心部にかかれていた
絵のことね。正はとび、鵠は白鳥のことですね。
ってね、何が言いたいかって、予備校の講師の書くこと
だからとそのままうのみにしていいのか?って言いたい
のね。
耳だけで記憶したものだけを何も考えずに使うのは
危険だが、活字も何も考えずに自分の知識にしたら
危険よね。
たとえ、信用できる人であっても、間違えはあるもの
なのよ。
>こんぺいとうさん
遅くなりました。こんにちは。
解説ありがとうございます!
> たとえ、信用できる人であっても、間違えはあるものなのよ。
この話、とても分かります。難しいです。
自分が外から得る情報が正しいかどうかを判断するのは自分自身。そしてその判断基準というのは、今までの自分が「外から得た情報」で決まっている部分もありますよね。
たとえばこの先生がとてもいい人で、お世話になった人であれば、間違ったことを言っていても信じてしまうかもしれない。
逆に言えば、自分が「信用されている」場合、情報を伝えることにはとても気をつけないといけないのだなーと思ったりしますね。
>たとえ、信用できる人であっても、間違えはあるものなのよ。
上記は確かに一理あると思いますわ。
しかしながら、ここでのフォーカスは、誰がどう言ったではなく「的を得る」のか「的を射る」のかが問われていることなのよ。これこそ「正鵠を失う」の例かしら?
つまり「的を得る」もしくは「的を射る」とは実際の所どういう状態のこと?「何かの疑問に対して納得のいく答えが出た」とか「質問の答えが合っている」とか「問題の要点を的確に捉えている」などという状態ではないかしら?違いますか?と言うことは、ここでの的(この際、正鵠でもブタの絵でもなんでも良いですわ)は「答え」とか「要点」ですよね?するとあら不思議!「答え」や「要点」は「得る」のもかしら?「射る」ものかしら?もうお解りですよね♪言葉って成長するのよ。正しい物を間違いって言われる時代もあれば、間違いを正しいと言われる時代もあるの。一時忌み嫌われた「ら抜き」も今では受け身型の紛らわしさから解放れたと言われ市民権を持つまでに成長したではないですか。市民権を得られれば正しい使い方と認めるインタラクティブなおつむは必要ではないかしら。