「悟る」という行動は、とてもすごいこと、なかなかできないこと、という印象がある。
でも、実際に何をすることが「悟る」ということなのかと考えると、実は良く分からない。
自分が何かを「悟る」ことを考えるときに、まずしようと思うのは、「定義すること」と「あきらめること」のような気がする。「悟る」という言葉自身にはなんとなくプラスの響きがあるのに、実際にそれをしようと思うと、なんだかマイナス方向の気持ちになってしまう。
「そんなもんよね」って、思ってしまっていいんだろうか?
変わるかもしれないじゃない。よくなるかもしれないじゃない。
どこかで、自分の心が、そう言っている。
「悟る」対象が人の場合、さらに迷いは大きい。
「あの人はそういう人だから」と思ってしまえば、付き合いはもしかしたら楽になるのかもしれない。悩まなくて済むのかもしれない。そういうことをしないで、「もしかしたら、こう言えば分かってくれるかも」「今日は機嫌が悪いだけかも」という、期待のこもった「かも」をずーっと心に抱えているから、付き合いに悩んだりするんじゃないか、という気もする。
こういうことがスパッと割り切れれば、きっともっと人生に余裕ができるのだろうな、と思う。でも、もし自分が「割り切られた」立場になったとき、自分ならちょっとさびしいだろうな、と思う。私自身、自分がどういう人なのか良く分かっていなくて、変わりたいとずっと思っているのに、「こういう人だ」と他人に傾向と対策を決められてしまうと、私は「その人にとってのMayunezu」を演じなければならなくなる。
人だってものだって、時がたてば変わっていく。
その変化の途中で、ナイフでスパッと切り取ってしまう。
「悟る」という言葉には、そんな印象を持っている。
こんにちは。いつもROMなのですが、とても共感するエントリでしたので、思わず書き込みました。
僕も「悟る」という言葉には、それ以上の理解や発展を打ち切ってしまう印象を持っています。ポジティブな言葉なはずなのに、不思議な物ですよね。
とはいいながらも、年を重ねるにつれ、難しい事象に対してはすぐ悟ってしまう悪癖が・・・
2004/06/03 12:12 kntmr僕が思う「悟る」という言葉は、これからの変化なども見越した上で「ああ、こういうことだったんだ」ってなることだと思う。
「悟る」ことはすごく難しくて、ちょっとやそっとじゃ達成できないことだと思う。だから自分が「悟った」と思っていても、もしかしたら・・・という気持ちがどこかにあるならそれは「悟った」とはいえないはず。
「悟る」というのは並々ならぬ経験と思考力の上に成り立つものだと思ってます。
2004/06/04 03:40 harumaki悟るとは仏教用語だと思うのですが
その通り、「仏に近づく」感覚がするのです。
イコール人間らしさからは遠ざかってる気がする。
何かを割り切る事ができないってことは
それだけ人間らしい感情でいると思っていいんじゃないかな。
ふと、そんなことを思ってしまいました。
モノやヒトが変わっていくことに対して
慣れることはあるけれど…(=´▽`)ゞ
先日、小学校の先生たちとの飲み会があり、
「あいつは若いから、ホトケになることができないんだ」
って酔っ払った教頭先生が言っていました。
ホトケになった人と話すのは手ごたえ十分なんでしょうかね。
ホトケになるには……
割り切る+待てる+個性を認められる+その人のよいところ、または努力したところを発見できる+あとはなんだろ。